今 日 の 独 言



2006年3月27日(月)
エイプリルフール顛末記

一年近く前になる。
夜、老母に電話がかかってきたと思ったら「急いで出かけなけりゃ」とあわてて支度を始めた。
電話は都内某所でスナックの店を出している友人からで、これから小泉首相が来るから早くおいで、と言われたそうだ。
バタバタしている母に、私は「びっくり水」でも差すように冷ややかな言葉を投げた。
 − 今日は何月何日だい?
この忙しいのにそんなこと構ってられるか、といった様子である。そこで重ねて
 − 四月一日だろうに … 
それでも気がつかないらしいので
 − そんな簡単に騙されるなよ、エイプリルフールじゃないか。
と説明すると、一瞬キョトンとした後、今度は笑いが止まらなくなってしまったようだ。
  −  … あーあ、アタシがよっぽどお人好しで騙されやすいと思ってるんだね。
「来い」っていうのだからともかく顔を出そう、と、落ち着きを取り戻し、ゆっくり着替えなどをすませて出ていったのだ。

夜遅く帰ってきて開口一番
  − 本当に総理が来たんだってよ … 十分だけいて出てったんで、遅く行ったから見れなかったけど
有名人で、ある分野ではカリスマ的存在のA氏の実兄I氏がその店の常連で、その人が首相を伴って来て、店の隅で短時間密談などをしてたらしいのだ。
その少し後、首相がその地区の視察をしたから、その打ち合わせでもあったのだろう。
また、そこには以前、世界的に名の知れたF氏も数回護衛付きで訪れていたと言う。

事実というのは、苦心して創った嘘よりも見抜きにくいものである。
今ここに書くのは、この季節を逃すと「証文の出し遅れ」みたいになって間が抜けるし、四月一日当日に持ち出しても、この実話自体誰も信じてくれないだろうからだ。

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2006年3月27日(月)
アンゼリカ

私の得意ワザの一つに「一件も引っかからないweb検索をする」というのがある。
 … 別に狙ってやるわけでなく、私が気に入った商品は必ず生産中止になるくらいなので、興味を感じる対象が元々大いに変わっているだけであろう。

今回、探してみたのが「アンゼリカのジャム」だ。
こんなネット時代になる前、某大手百貨店で一度購入したことがある。有名なF社の商品である。
かなり経ってから二瓶目を買いに行ったら、もう輸入してないとのこと。日本では人気がないのだろう。

私自身、特にその味が好きというわけでもないが、「セリ科・アンゲ(ゼ)リカ属」の植物には特別の思い入れがあるのだ。
菓子に入れるドライフルーツの砂糖漬け「アンジェリカ」(緑色のやつ)も、国内で流通してるものの100%がフキ(キク科)なのを不満に思い、真正アンゲリカ属であるアシタバの葉柄で試作したことがある。
稚内に旅行したときには、サロベツ国立公園の境界線から一歩出てエゾニュウ(やはりアンゲリカ属、上の写真)の、いかにも食べでがありそうな葉柄を数本採集し、帰宅してから砂糖で煮て、パウンドケーキに入れてみた。
これは、あく抜きを忘れ、えらく苦いケーキになってしまったが、「オトナの味」として存外好評だった。

PCの前に座っているだけで日本中から商品を取り寄せられる、よい時代となったので、「アンジェリカ ジャム F社」と打ちこんでみたのだが、オフラインで見つからないものはオンラインでもダメなのだ。「私が変人である」という事実はいくら社会のネット化が進もうと動かしようもないのだから。

西洋のハーブであるアンゼリカは日本の生薬ビャクシ(ヨロイグサの根 − 中国では別植物を主に用いる)にごく近い種なので、漢方薬店からこれを取り寄せ、自作することを決意した。
この仲間には「アンゲリコトキシン」という毒性分が含まれていて、過剰に摂取すれば呼吸停止などの事態を招くことは判っている … どのくらい食べるとアウトになるのかな? … まあ、そんなにいっぱい食うものではないだろうし … 
レモン汁、りんごジュース、砂糖、それにトレハロースまで持ち出し、一晩水につけていおいたビャクシ根をコトコト煮てみた。

柔らかくなるまで時間のかかること … それに家中(多分近隣にまでご迷惑をおかけした)鼻の曲がるようなひどい臭気である。セロリの中にある一番ドスの利いたニオイと表現するべきか。
それでも、アンゲリカの香気の底には「ω−ペンタデカノライド」という、高級ムスク(麝香)香料として合成・利用されている成分も入っていて、慣れてくると、麝香を焚きしめたようにも感じられてくる … 知識としては判っていたが、自分で煮詰めることで、改めてそれを体感したのだ。

一握り程度の完成品をパンの耳に付けてこわごわ味見してみる。
いやあ … 「ビャクシは苛烈味を有し」とは生薬の本に書いてあるが、実に苛烈である … もっと何回もゆでこぼすべきだったか。それにルバーブ(西洋の食用大黄)のようにジャムには葉柄の部分を利用するものなのだろうか。

少量が口に入ると、額にうっすら汗が浮かび、「気」が頭部へと上昇するのが判った。
普段、気が下がってボーっとしてしまいがちな体質だし、この感覚だと、持病の偏頭痛の前に起こる、脳が塞がるような症状に効き目がありそうなので、薬用として使えるのだろう。
ただ、嗜好品とすればとても食べられたものではない。

知り合いがフランスを旅行するときに、F社の「アンゼリカ・ジャム(コンフィチュウール・ド・アンジェリック)」を頼むこととしよう。

2006年3月27日(月)
紹介 … 

このサイトの各パーツについて少々説明しておこう。

トップページで、中央の「Y」字形の白い四星は天乙三星+太一の「太一鋒」を象徴している。
三頭横に並んだ虎は参宿(しんしゅう、おりおん座の三つ星)である。
各ページにある四匹の龍は房宿で、その下の「く」の字形の三星・心宿とともに「さそり座」に属している。
また、右下の太陽にマウスをおくと現れる柄杓型の星は、いて座の南斗六星(斗宿)である。夏に都心でも見えるのだ。

BGMは、本当は他の曲を使いたかったのだが、打ちこんでいる余裕がないので、以前にデータ化したものの使い回しである。そのうち差し替えるかも知れない。
F.J.ハイドン、作品74-3ト短調の弦楽四重奏曲、俗称「騎士 Reiter」第二楽章。
占断依頼の前、このような曲を聴けば多少心が落ち着くだろう、という配慮も込めて … 

ハイドンの曲は、誰かが論じていたように、よいものはほんの一握りかも知れないが、それが非常に優れていると思うのだ。
幽玄で … 禅の「幽玄」と世阿弥の能楽の「幽玄」とがあるとすれば、ハイドンの晩年の作品は明らかに前者、禅芸術とさえ言えるだろう。
ドボルザークはモーツァルトを指して「太陽」と呼んだが、私はハイドンに「北極星」の称号を与えたいと思う … 私はハイドンの曲の中に日本を見るのだ … そう言うと不思議がられるかもしれないが。

このページでカエルが背負った、白い気を放っているカボションカットの宝石はムーンストーンである。銘 − 名は「銀桂」と付けた。
これは占った上で命名したもので、私としては、この石が自らこの名を要求したように感じている。

「桂」は日本産のカツラでも、料理に用いるローレル(月桂樹)でもなく銀モクセイを指す。
中国の伝説では、月には銀モクセイの樹があり、罪を犯した呉剛という人物が罰として伐り倒すよう命じられたのだが、霊樹で傷がすぐふさがってしまうため、永遠に斧を振り下ろし続けなければならないという。

なお、月の石を背負ったカエルは、通称にすぎないが「トオル君」である。
何故そう呼んでいるかについては、またそのうちに … 

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2006年5月1日(月)
原点に戻って

「原点」というのは競馬のことだ。
十年近く前初めて本を出したが、それが「占いで万馬券を獲る」内容だったのである。
そのとき初めて競馬というものに接した。本には「成功例」が必要なので毎週馬券を買っていた。

一レース分、例えば十八頭の馬と、その中で占い上「有望」と出たジョッキー(騎手)についての運勢を占うのは − 若い頃だからやったものの − なかなかの荒行である。
 … 最初っから有力と目をつけた三〜四頭だけ課式(占断の素材となるもの)を立てればよいのだが、よけておいた馬が来ると悔しいし、データを自分なりに分析して候補を絞れるほど競馬の知識もないので、結局全頭を、となってしまう。

今年の皐月賞は勧める人があったので占う気になった。記録をめくってみると実に五年三ヶ月ぶりの競馬である。

何となく[3]枠5番メイショウサムソンから占いはじめたところ「◎」と出た。この時点ではこの馬が勝つのではないかと思った。
ところが上の石橋守の運勢が「×」(「最低」の意味)と悪いではないか。見えかけたレースのイメージが再び深い霧の中に沈んでしまった。

すべて立課(課式を立てる)し終えて、馬・人ともに「○+」だった2番ドリームパスポートを軸とすることにした。そこから馬連(「馬複」、着順に関わらず一着と二着の組合せを当てる買い方)で、見込みのある他の九頭に流すのだ。

ところで、ある馬が吉でジョッキーが凶の場合、

  a.単にその馬を占いそこねただけ(良く出すぎた)
  b.三着になる
  c.占者の潜在意識が同枠の馬と混同した(本当は同枠馬が勝つ)
  d.実は連対する(一着か二着)。ジョッキーの占いで失敗した

という可能性があるのが、経験的に判っている。
まず「c」を疑ってみた。メイショウサムソンの隣の、[3]枠6番フサイイチジャンク・岩田康はともに「△+」である。これも「裏軸」として「4・6・7」のボックスを追加することにしてみた。

もちろん上記「d」も考慮し、2番ドリームの相手には5番サムソンも加えておいた。

結果はご存じのとおり、一着=5番メイショウサムソン、二着=ドリームパスポート、三着=フサイチジャンクであった。馬連で一万三千九百八十円だ(賭け金百円に対して)。

それにしてもなかなか 100%  とはいかないものである。
手順的に、馬をすべて占ってから、さて見込みのあるやつのジョッキーをもう一頑張り … となるため、疲労・集中力が途切れるなどの事情はしかたないとしても、「ジョッキーの運勢占」の精度を上げる対策を考えなくてはならない。
今回など、むしろジョッキーの占いを省略すれば「2−5」を中心にして迷うこともなかったろうに。

皐月賞は何故かいつもスマートならざる当て方をしてたような記憶があって、調べたところ、今まで三回このレースに挑戦して、三回ともどうにかこうにか取ってはいる。投資額をさっ引いてもプラス八万円を超えていた。
「相性がよい」とも言えるが、それだけについ、何が何でもと、なりふり構わぬ買い方をしてしまうのかもしれない。

自分に厳しくあろうとすればどこまでも可能だが、個々の依頼に一つずつ卦や課式を出すのと異なり、「一レース」という単一の目的に対して二十以上立卦/課する場合、それ全体で「一件の占い」と考えるべきであろう。
課式の揺らぎに意識で修正を加えながら有用な結論にたどり着けたのだから、「占術」の役目は充分果たした、この「一件の占い」は成功だったのだ、としておこう … ここらが今の私の限界だ。

「ギャンブル」のイメージとは反対に、私の競馬はどちらかと言えば健康的である。
まず食事の量を控える。そして一頭占うたびに端座して姿勢を正し、腹式呼吸で精神を集中するため、皐月賞が終わったころには、腹から腰・ももにかけ少々引き締まって、どうやらシェイプアップ効果さえあったようだ。

2006年5月1日(月)
モレパシー?

競馬で想い出したからついでに … 

何年も前、中山競馬場で開催されたレースの馬券を水道橋WINDS(場外馬券売り場)で買っての帰りである。
中央線各駅の電車の中で、ふと「当たるか?」を占ってみる気になった。
目を軽く閉じ、「今日の中山・11レースどうか」と精神を集中させた。

 … 少なからずびっくりして目を見開いてしまった。車掌のアナウンスが耳に入ったからだが、その声が

 − 次は下総中山、下総中山

と聞き間違えようもなく、ハッキリと告げたからである。

関東以外の方はピンと来ないかもしれないが、東京の山手線の円内を走っているところで、次は「信濃町(しなのまち)」だったのだ。「下総中山」は、私は何線で行けるかも判らない … 明らかに千葉県であろう。

その車掌さんが千葉の管轄からこちらへ異動になったばかり・どちらの駅名も「し」で始まるから … と理由は付けられるとしても、滅多に起こり得ないことに思える。

私の「中山・11レース」という念が漏れ出て、たまたま周波数が近かった車掌さんの意識に拾われてしまったのだろう。「混信」である。こういうことがあるのだ。

「電波が飛んできて命令された」というのも妄想だけで片づけられない現象なのかもしれない。

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2006年5月1日(月)

インドにいる女性の知人からつい先日メールがあった。

 − クリシュナ生誕の聖地を訪れたところ、宗教的熱狂で頭がくらくらし、涙が止まり
 ませんでした。ここの人達は巡礼者などに優しく、私にも「おめでとう」、「これから幸せに
 なれるよ」と言っ てくれました。実際、インドに来てこんな幸福だったのは初めてです。


私はこの人からもらった外国旅行土産をよくネットオークションで売り捌いていた。
 … と書くと随分ひどい人間のようだが、この知人は、いつも「これをどうしろってんだ」というくらいのガラクタを山ほど買い込んできて、それを必要としているとも思えない知り合いたちに配るクセがあるのだ。
くれたお茶くらいは飲むとしても、後は「商品」にするくらいしか思いつかない。とは言え、オークションの売り手になるのも時間と精神に余裕がないと難しいのだが。

そんな一つに木製のヒンズー神像らしきものがあった。細かいところは細工が粗いが、まあまあよくできている方である。
少し前にそれを「インドだかバングラだかの笛を吹く女神像●お顔が魅力的」という宣伝文句で出したところ、早速一件入札が来た。
入札者 − 多分若い女性− のプロフィールをチェックしてみて、何となく、ああ、この人に落札してもらいたいな」という気になったのだ。
評価総数 140 すべてが「非常によい」だったし、落札品の傾向がインドとか瞑想とか、つまりは精神世界にドップリの人らしい。
このような人間なら後から言いがかりをつけたりしないだろう。それにこの商品に何らかの価値を見出してくれそうである。

他にライバルも現れず、神像は出品時価格のままその人のものとなった。
落札者からの連絡に曰く:

 − 「女神」とありましたが、男の神様クリシュナだと思います。クリシュナの像は前から
 欲しくて、 ネットなんかをあちこち探してやっと見つけました、思っていたよりきれいで
 とても嬉しいです。


私は最初の印象が間違っていないのを確信した。この人には、出品者である私や、くれた知人より、品物の知識も、入手する強い動機も、必然性もあるのだから。
時は恰もクリスマスであった。


このクリシュナ像は、土産物職人のノミの先から生れた瞬間からこの落札者の所有になる「さだめ」だったと言うべきであろうか … 
あるいは、この物がインドかバングラディッシュで「よし!」と思い立って私の知人に声をかけ、長い長いヒッチハイクをした末に極東の地に降り立ち、さらに私にテレパシーを送ることで、「よっこらさ、あー、やれやれ」と、やっと在るべき場所 − 最終目的地に落ち着いたのだ、と表現すればより適切かもしれない。正にそのような感覚があるのだ。

入札があった時点ですでに考えていたことだが(この像はちょっと見だけ白檀に似ているが香りも何もない木で作られている)「おまけ」として本物の白檀の木片をつけて発送した。

神像を現地で買ってきたた知人には − すでにオークションの顛末は知らせてあったので − 冒頭のメールへの返信に

  − その幸福感はあのクリシュナ像からの骨折り賃代わりのチップでしょう

と書いておいた。

クリシュナは「神様」だから特別というわけではなく、川原の石ころでも同じことだと私は思う。
物が我々を所有するのだ。
物と人との出会いは人間同士のそれよりずっと深く、神秘的で、エキサイティングである。夜の街を歩いていて、ビルのすき間に、すでに昇っていた月があるのに気がつくみたいに、まるで「随分遅かったな。こうしてお前を待っていたのに」とでも言われたように感ずる。


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